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インクルーシブ教育はインクルーシブ社会のいしずえ

札幌いちご会 事務局

<いちご通信223号より抜粋>


2024年9月8日、北海道クリスチャンセンターホールにて、

DPI日本会議副議長である尾上浩二氏に、インクルーシブ教育と合理的配慮について講演していただきました。

今回、講演内容の総括を尾上氏に執筆いただきました。

 


東俊裕氏

尾上浩二 氏

1960年大阪市生まれ、1歳で脳性マヒとの診断。

親の会が実施していた訓練事業に通う。その後、養護学校、施設を経て、中学から地域の学校へ。

大阪市立大学に入学後、障害者運動に参加。駅のエレベーター設置や、福祉のまちづくり、自立生活支援に取り組む。

2004年からDPI日本会議事務局長。障害者政策委員、内閣府・政策企画調査官を歴任。

現在DPI副議長、内閣府障害者施策アドバイザー


「子ども時代に分離されると、大人になってから地域で生活することが難しくなる」


 これは、国連・障害者権利委員の一人であるヨナス・ラスカスさんの言葉だ。彼は、障害者権利条約に関する日本の審査で中心的な役割を果たした。


 2022年に障害者権利条約に関する日本政府への総括所見(勧告)が出た。日本政府に対して脱施設・インクルーシブ教育を強く求めるものだ。私もジュネーブに赴き、委員に日本の実情を訴えた。

 審査では、分離教育に対する厳しい質問が目だち、自分自身が受けてきた学校や施設での体験と重ね合わせながら傍聴した。分離教育の問題点やインクルーシブ教育の意義を知って頂くために、私の教育体験を紹介する。

 



公園でゴロ野球〜合理的配慮の原点


 私は、1960年に脳性まひの障害を持って生まれた。子どもの時から立ったり歩いたりすることが苦手だった。

 毎日のように家の近くの公園で遊ぶのに忙しかったから、手と足にスリッパを履き、公園まではって行った。車が少ない時代だったから、おまわりさんに保護されることもなかった。公園での野球が楽しくどろんこなって遊んだ。打つときは、ホームベースに座りゴロで投げてもらったボールを打つ。走れないので、代わりに代走で走ってもらう。守るときは、三塁のライン近くに座って守る。「私の身体に少しでもボールが当たるとスリーアウトチェンジ」というルールができていた。チーム分けの時には、「こちらのチームに」と誘ってくれたのを思い出す。

 「どうしたら一緒に遊べるか、楽しめるか」と子ども達の間で自然につくられたルールだ。私にとっての「合理的配慮」の原点と言える。

 



養護学校(現・特別支援学校)へ〜地域から離れて


 小学校からは養護学校に通うことになった。養護学校は離れた場所にあり、スクールバスで1時間余りかかった。養護学校に行ったことで、帰宅後の生活が大きく変わり、家の中でずっと過ごすことになった。テレビを観るか、読書をするか、プラモデルやラジオをつくるといった過ごし方になった。他の子どもは地域の学校に通う中、私だけが離れた養護学校に通うことになったためだ。


 さらに、小学校5年からは肢体不自由児施設に入所することになった。学校は同じ施設の2階にあり、エレベーターで移動するだけで登下校は終わる。便利そうに聞こえるが、施設から一歩も外にでず、24時間施設の中で暮らすことになる。文字通り、社会から分離された生活だ。その問題を象徴するエピソードがある。

施設に入所した日に、同級生から「信号機ってどんなもの?」と尋ねられ、「信号って、赤と青と黄色の…」と絵を描いたりして説明するが、どうも通じない。その後、同窓会で久しぶりに再開した時に聞いたら、「5歳の時から施設に居て、自分で横断歩道を渡ったことがなかった。テレビとか絵本でしか信号機をみることはなかったので、質問した」との返事。「障害を治す」という名目で人間関係や社会経験などが限られ、かえって生きにくくさせられてしまうことが往々にしてあったのだ。

 



地域の中学校へ〜大きく広がった世界


 中学へ上がるのをきっかけに退所し、実家に戻った。今から半世紀前でも、「障害のある子どもだけが施設に集められ、社会から隔絶されるのは、子どもにとってよくない」と考えて接してくれていたスタッフがいた。彼らの応援で、地域の中学校に進んだ。もし、地域の学校に行かなかったら、そのまま20歳まで居て成人施設に…という可能性もあった。人生の大きなターニングポイントだ。地域の学校に送り出してくれた彼らには心から感謝している。


 ただ、すんなりと中学校への入学が認められたわけではない。地元中学との話し合いに呼ばれたのは、小学6年の2月だ。二度話し合いを持って、何とか認められた。その際、「階段の手すりなど設備は求めない、先生の手は借りない、周りの生徒の手は借りない」との念書に親がサインすることを求められた。いわば、「合理的配慮を一切求めない」というのが条件だった。


 地域の学校に通うようになって驚くことが沢山あり、家のすぐ近くに同じ学年の子どもがいるということが新鮮な驚きだった。いくら近くに住んでいても、それまでは学校が違うので出会うことがなかったのだ。学校の帰り道に、友だちとたこ焼きなどを買い食いしたのを思い出す。


 学校生活で、最初に困ったのは音楽の授業だ。離れた校舎の四階にある音楽教室に松葉杖で移動するには時間がかかり、いつも遅刻して入室していた。入学して一月くらい経った頃、ラグビー部に所属していた友人が階段の移動を手伝うことを申し出てくれた。しかし、入学時の念書のこともあり、「いいよ、大丈夫」と断ったら、彼は「友達やないか、水くさいこというな!」と言っておぶる格好をした。そのことをきっかけに「今週は○○と△△」といったグループでのローテーションが始まった。


 さらに、友だちとの関係の中で、もう一つ忘れられないできごとがある。私は子どもの時から洋楽が好きで、友だちとレコードを貸し借りしていた。ある時、音楽仲間の一人が繁華街にあるレコード屋に買いに行こうと誘ってくれた。当時、松葉杖で何とか歩くことはできていたが、それまで親と一緒にしか電車やバスに乗ったことは無かったのだ。生まれて初めて親の同伴無しで地下鉄に乗りレコードを買いに出かけて、自分の世界が広がったような解放感を得た。同じ世代で、かつ同じ趣味の友人との外出は、その後の人生に大きな影響をもたらした。障害者運動に参加し、バリアフリーに熱心に取り組んだのも、この時の外出体験があったからだ。


 一方、学校は、現在の障害者差別解消法で定められているような対応は何一つしてくれなかった。中学三年になってすぐ、担任に職員室に呼びだされ、「修学旅行は、長野県で信州の山道だ。松葉杖で歩いて何かあったらダメだから、お前はつれていけない」と一方的に言われた。一年から積み立てた修学旅行のお金を入れた封筒が渡され、さらに「修学旅行は勉強の一環だ。修学旅行の三日間、学校に来て自習すること」と命じられた。さすがに、誰もいない三年のフロアで一人っきりで自習するのは嫌だ。辛いのを通り越し、惨めな感じだった。ただ、当時は、「歩けないから仕方がない。三日間、自分の好きな本を読めたからよかった」と強がっていた。それだけ医学モデルを内面化していた。


 少々こじれた高校生活を過ごし、大学に入学して障害者運動に参加することになるのだが、その根底には、これまで述べてきたような障害者としての経験がある。

 



今こそ、「分離に慣れ親しんだ社会」からの転換を


 冒頭に紹介したラスカスさんは、「インクルーシブ教育はインクルーシブ社会の礎」といった言葉も、日本の私たちに教えてくた。この言葉で思い出すのが、今から10年ほど前の講演会でのできごとだ。


 大阪教育委員会主催で公立の小中学校の校長先生を対象にしたものだ。その年から施行される障害者差別解消法がテーマで、800名程の先生を前に話を終え、机の上の資料を片づけていた時に一人の先生がつかつかと舞台の方に歩いてきた。「合理的配慮といわれても、現場は大変なんです」と言われるかな、どう返そうか…と心の中で考えていた。舞台に上がり「やあ、尾上君、中学校2年の時に同じクラスだった者です」と話しかけられた。現在は、ある中学校の校長だ。「尾上君と同じクラスやったから、学校には障害のある子が居るのが当たり前だと考えている。だから、どんな障害があっても自分の学校では受け入れるようにしている」と言われた。


 実は、その人とは学校で遊ぶくらいで、特に親しくしていたわけではない。それでも憶えてくれていた。さらに「学校には障害のある子が居るのが当たり前」との考えを持ってくれていた。インクルーシブ教育は、障害のある子どもだけでなく、障害のない子どもにとっても色々な人と出会い育つという意味でも、とても重要だ。


 アメリカやイタリアなどでは1970年代からインクルーシブ教育に舵を切り始めた。一方、日本では分離教育を強める方向に進めてしまった。長年の経過の中で、日本は「分離に慣れ親しんだ社会」になってしまっている。国連の総括所見は、そうした日本のあり方を根本的に問うている。


 時間はかかるがインクルーシブ教育・脱施設に向け取り組みを進めていきたい。


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